067255 ランダム
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紫陽花色の嘘

紫陽花色の嘘

書く女 5

 それは、渡辺有紗にとって、予想された展開ではあった。
 有紗は、自分の部屋の窓から走っていく榊原の姿を見送った。彼の姿が見えなくなると、カーテンを閉めてベッドの上に寝転がった。足を天井に向けてぐるぐる回す。それを五十回やると、足は天井に向けたままで、今度はつま先で一から十まで大きく数字を書いた。この体操を毎日続けると、脚が引き締まり細くなるのだ。クラスメートの絵梨香が言っていた。
 ここ二・三年、有紗の手足はにょきにょきと伸びた。正直言って、自分でも持て余している。それでも、友達は羨ましいと言ってくれる。
 有紗は起き上がって、洗面所へ顔を洗いにいった。鏡で自分の顔を念入りにチェックする。よかった。ニキビは出ていない。昼間、絵梨香の家に遊びにいったとき、おやつに出されたチョコレートを食べ過ぎたので心配だったのだ。
 有紗は、美しくなりたかった。榊原のために。早く榊原に女として見てもらえるような大人になりたかった。
 三年前、両親が離婚して、有紗はこのアパートに引っ越してきた。このアパートは祖父の持ち物なので、ただ同然で住まわせてもらえている。
 離婚する前から母親は看護士として働いており、父親も仕事が忙しく帰ってくるのはたいてい午前様だった。有紗は家ではいつも一人だった。一人に慣れてはいたけれど、会話する人のいない夕食、誰もいない家で眠るのは寂しかった。
 しかし、このアパートに住むようになって、夜眠るまでの時間を榊原と過ごすようになってからは、家に帰るのがどれほど楽しみになったことだろう。
 もちろん、榊原も仕事で帰りは遅いのだけれど、それでも嫌な顔一つしないで母親が帰るまで一緒にいてくれる。
 有紗は、いつ榊原が来ても大丈夫なように、部屋を片付けたり、洗濯物をたたんだり、家庭科で習ったばかりの料理を作ったり、まるで新婚早々の若妻のような気分で家事にいそしんでいた。
 しっかりした子供に育ったと、母親は目を細めていただろう。でも、それはすべて榊原のおかげだった。
 榊原に予定のない休みの日は、映画に行ったり、ドライブに連れて行ってもらったりして、まるでデートのように過ごした。父親がいなくても、有紗は幸せだった。
 でも本当は榊原に好きな人がいることに気づいていたけれど。
 社員旅行で撮った『先輩』の写真は、榊原の宝物として定期入れの中におさまっていることを知っていた。長い髪にゆるやかなウェーヴをかけたその人は、有紗から見てもドキドキするくらい美しかった。
 冗談交じりに問い詰めると、彼女は三歳年上の先輩だと説明してくれた。三歳なんて、差のうちに入らないと思った。有紗と榊原は十七歳の差があるのだ。愛があれば年の差なんて、とは言うけれど、その愛も一方通行なら年の差は救いようがない。
 ぼんやりとテレビを見ながら、有紗は溜息をついた。誰かと話をしたかった。友達の家に電話しても、この時間じゃ相手の親に迷惑がられる。有紗の母親は小学生が携帯を持つのには反対だったし、友達の家もそうだった。
 有紗は机の引き出しの奥から、小さな紙を取り出した。ポケットティッシュに挟まっていたテレクラのチラシだった。今日、絵梨香の家に遊びにいったとき、彼女がくれたのだ。
 絵梨香の家は共働きで、日中は彼女一人きりのことが多い。暇なときはここに電話するの、と無邪気に言っていた。ただだしね、とも。
そのチラシに書かれている女性用のフリーダイヤルを、有紗は緊張しながらプッシュした。
「たいていは、すぐに会いたがるいやらしい声の男が多いんだよ。そんなときは、待ち合わせの約束をして、物陰からこっそりと相手を見て笑ってやるんだ」
 絵梨香の言葉を思い出しながら、彼女は勇気があると有紗は思った。そんなスケベな男を見にいくなんて、怖くないのだろうか?
「もしもし」
 相手の男が出た。有紗は、二十歳のフリーターを演じ会話を進めた。会話自体は思っていたほど怖くなかった。しばらくは順調だったが、相手の男の人を見下す態度が鼻につき始めた。
「こんなところに電話して、退屈を紛らわせてるわけ? 寂しい生活してるんだね」
 それは事実なので、有紗はムッとした。そういう自分だって、『こんなところ』に電話して女を漁っているのではないか。
「そうなの。会ってこの寂しさを埋めてくれる? 場所は……」
 適当なホテルの前を指定して、有紗は電話を切った。心臓がドキドキする。もちろん行くつもりなんてない。見るだけでも、真っ平ごめんだ。
 不愉快な男の声を耳から追い払うかのように、有紗はテレビの音量を上げた。
(携帯が欲しいなあ……)
 携帯なら、同じ暇つぶしでも文字のやり取りで済む。相手の不快な声につきあう必要はないだろう。
(そうだ! パパに買ってもらおう)
 月に一度、父親との面会日があった。それは離婚のときに決められたことだった。滅多に会えない娘のために、父親はいろいろプレゼントを買ってくれた。だが、いまだに有紗のことを子ども扱いする父親は大きなテディベアを勝手に買ったりして、彼女を困惑させることが多かった。早く大人になりたい有紗にとって、ぬいぐるみなんて子供っぽいものはもらっても邪魔なだけなのに、父親はさっぱりわかっていないのだ。
 今度の面会日には、エンジェルブルーのブルゾンを買ってもらうつもりだったが、携帯のほうが絶対いい。
(携帯さえあればパパといつでもお話できるのになあ、って言えば絶対買ってもらえるわ。カメラつきの最新機種を買ってもらおう。それで敬ちゃんとのツーショット撮って、待受けにするんだ。着メロはポルノグラフティの新曲がいいかな。ストラップはビーズで手作りしてみよう。そうだ、上手にできたら敬ちゃんにもプレゼントして、おそろいにしよう……)
 いろいろ考えているうちに、有紗の機嫌はすっかり直り、テレクラの男のことなど忘れてしまった。
 鼻歌を歌いながら、有紗は足の爪にラメ入りのマニキュアを塗った。そして乾かすために、ベッドで仰向けになって足をバタバタと振った。



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